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■ グリーンハウス氏とのインタビュー

グリーンハウス


デビューの頃 I カザルスのこと I 室内楽のこと

そのころはチェロでは
生活できませんでした

--グリーンハウスさんはアメリカ生まれのアメリカ人なんですね。

グリーンハウス(以下G) 私は合衆国で生まれています。父はロシア出身で、母はウィーン出身です。家族には4人の息子がおりました。父は家族で音楽ができると思いました。音楽がとても好きでしたのでね。一番上の兄はピアノをやり、次男はヴァイオリニスト、3人目はフルート。そんなわけで、私にはほとんど選択の余地などありませんでした(笑)。父は私にチェロを買い与え、小さなアンサンブルをやらせたかったのです。当時はチェロで生活するのは大変でした。後のことですが、コロンビア放送響にいたころ、週に3回、フォイヤマンに習っていました。デビユーしようとして一生懸命練習し、「ニユーヨークでのキャリアのデビユーをしたくてたまらないんです」って言った。そしたら彼は、「馬鹿なことを言うんじやない、ソリストになりたいなんて。私は来年は12回しかコンサートがないんだ。どうやってそれで生活するというのだね」。合衆国ではチェロという楽器そのものがそれほど知られていなかった。カザルスが当時アメリカに来たとき、初めのころは聴衆が75人しかいないこともあったそうです。
 ですが私はこの楽器を愛していました。白分の進路を決定せねばならない年になったとき、そう決意したのです。父ほ私を医者にしたかったので、ジュリアード音楽院を選択したときはとても立腹しました。それで私は、ジュリアードの奨学金を得る、と宣言したのです。「ジュリアードに行くのなら、白分で勝手にやれ」ということになったんです。

--当時、ジユリアードのチェロの生徒は何人いたんですか。

G 学生が6人。l933年のことでしたが、学校中でも140人。声楽、ピアノ、管楽器、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンなどを含んでいます。私はイギリス人チェリスト、フェリックス・サモンの生徒でした。彼はたくさんの才能あるアメリカ人チェリストを出しています。レナード・ローズ、フランク・ミラー、サミユエル・メイズなど。私たちはみな同じクラスにおりました。ジユリアードで勉強した後、コロンビア放送交響楽団に第lチェリストとして加わりました。私は21才で、1番若い存在でした。そこでドリアンSQという団体を結成しました。
 コロンビア・レコードに録音もしています。3、4年やっていて、CBSで放送もされました。ですが私の仕事のほとんどはオーケストラで、ありとあらゆる偉大な指揮者が来ました。ライナーとかビーチャムとか、バーンスタイン、ストコフスキー。そんな風にして3、4年間の間オーケストラで弾く経験を持てたことは、幸運だったと思います。ですが、それから第2次大戦となり、海軍に徴兵されたのです。幸運なことに、私が送られたのはワシントンDCでした。軍がアメリカ中の優秀な音楽家を集めたオーケストラを組織したのです。アメリカ合衆国海軍バンドというものもやらされました。私はオーボエの吹き方も練習する羽目になりましたよ(笑)。
 そのオーケストラで毎月協奏曲を弾かなければならなかったんですが、オーケストラそのものは一級品だったわけですからね。いろいろな人がいました。私が第1チェリストに座り、デヴィッド・ソイヤーが隣に座っていました。そこで彼と会ったのです。チェロ・セクションは素晴らしいものでした。ニューヨーク・フィルの首席が2列目にいましたし。私はソリストでしたので、毎月独奏をせねばならなかった。凄い経験ですよ、22回もこんなオーケストラで違った協奏曲のソロを弾いたのですから。レパートリーを増やすことにもなりましたね。
 海軍では自由な時間がたくさんあった。その時間を無駄にせず、3年間の間に毎日5時間も練習ができました。l942年から45年12月までです。それから、ニユーヨーク・デビユーを決意しました。ニユーヨークではリサイタルをしたことがありませんでしたからね。で、リサイタルをやって、大いに成功しました。私のキャリアのスタートです。



カザルスは
ドアの何こうで聴いてました

G 当時の私の理想はカザルスでした。彼を探さねばならない、ということは分かっていました。それでカザルスと親しいアレクザニアンのところへ相談しました。海軍にいたころ、週末で休みのときに、彼の教えを受けにニユーヨークまでたびたび出てきていましたのでね。ニューョークでのデビューに向け、彼に習っていたのです。彼も私がカザルスに習うべきだと思ってくれました。彼はカザルスの居所を知っていました。で、手紙を書いてくれたのです。

--当時、音楽関係者にとつても、カザルスの居所は謎だったのですか。

G ええ。

--カザルスという名前は、当時は世界中でまだ知られていたのでしようか。

G もちろん。当時、演奏を拒否をしていましたが、とても有名でした。彼白身、当時は彼が世界で一番ギャラの高い演奏家だろうと口にしていましたよ。世界中で知られていたのに、亡命し、フランコを認める国では演奏しないと宣言した。でも、世界中がフランコ政権を承認してしまいましたので、彼はプラードを離れられなかった。で、アレクザニアンはカザルスに手紙を書きました。私はいまでもその返事の手紙を持っていますが、それには「彼はいまは教えていない」と書いてあった。亡命者のことで忙しいので、教えることはできないとしていました。
 その手紙が来たとき、私はパリ郊外のフォンテンブロー学校に登録していました。私は白分でカザルスに、一度私の演奏を聴いてくれまいか、と手紙を書いたのです。1週間くらいして返事をもらいました。「こっちまで来てくれれば、演奏を聴きましょう、でも、スペインの難民のために、100ドルのチャリティをしてくれ」とありました。で、すぐ次のペルピニアン行きの列車に飛び乗り、プラードに着いた。チェロなしでね(笑)。到着したとカザルスに伝え、まず30分ほど話をしました。なにしろ私は、彼の前で1回弾くだけのために、はるばるやってきたわけですから。で、数日したら聴く時間もあるから、また来てくれという。
 指定された日、私がドアを開けて部屋に入っていくと、カザルスはまだ服も着ずに手紙を書いていました。「先に入って、ウォームアップをしていてくれ、髭を剃ったら聴きに行くから」というのです。私はとても緊張し、弓がブルブル震えていましたよ。10分たってもカザルスは来ない。15分たってもやっばり来ない。彼が部屋にいないので、だんだん落ち着いてきました。ある瞬間、ドアのほうに音がしたので振り向くと、そこにピカピカ光る頭が見えるんです(笑)。彼はずっと私の演奏を聴いていたのですよ。私の顔を見ると、彼ぱ笑って、部屋に人ってきて、「君がナーバスでなくなったら聴きたかったんでね」と言う。素敵なことですよね、とっても同情的だし。そして、「さあ、私にバッハを弾いてくれたまえ」ってそれからハイドンの協奏曲、ドヴォルザーグの協奏曲などなど。45分の間、私は彼の前で弾いていました。
 「とってもよい、とっても」と彼は言ってくれた。でも彼が言うには、「君はとてもよく弾けるが、必要なのは、だれか本当に偉大な芸術家と一緒に勉強することだ。美しくチェロを弾くけど、偉大な芸術家に学ばねば」それからしばらく彼は考えていた。で、「だれのところに行けとアドバイスすべきか分からないので、この村に滞在して、週に3回レッスンを受けるだけでよいのなら、私が教えてあげよう」と言うのですよ。私にとっては最高の瞬間でした。

--1946年のことですね。

G そうです。それでその年はほとんどずっとプラードにいました。寒くなったl月に、ニユーョークでリサイタルをしなければならなかった。で、戻ってきて、5、6週間こっちにいて、また2年目のレッスンを受けるためにプラードに行きました。リサイタルには、カザルスと一一緒に写っている写真を使いましたよ。カザルスのところで勉強しているのですから、その事実は少しはキャリアの助けになるだろうと思ったのです。彼は私のためにとても美しい文章も書いてくれました。「バーナード・グリーンハウスは、単に愛すべきチェリストであるだけでなく、それ以上の、傑出した芸術家として、私は評価します」というものです。とても美しいコメントだと思っています。

カザルスは言った、
「さあこれがレッスンだよ」

G で、ニューョークでそこそこ成功したリサイタルを行い、プラードへ戻りました。アメリカで弾く時間はほとんどなかったわけですけど、当時はそんなこと気にもしていませんでした。「自分の演奏スタイル」を確立している時期でしたからね。ですが、ちょっ性急すぎたかもしれません。国に戻ってきたときは、ちょっとばかり、カザルスの縮小コピーみたいなものになっていました(笑)。そりゃよくはありません。で、家でアレクザニアンと会ったのですけど、彼はとても聡明な人で、説明してくれました。すぐにカザルス流を使ったり、まねをしたりするのはやめるべきだというのです。そうじやなくて、彼が音楽を創るテクニックを利用すべきだ、という。私にとっては、とても重要なアドバイスでした。なにしろ私が最初に帰国してニユーヨークで弾いたときは、まるでカザルスのイミテーションだったのですから。

--あなた自身はそれを理解していらつしゃいましたか。

G そのときには分かっていなかったね。自分はすごいって思ってた。なにしろカザルスみたいに弾けるんだから(笑)。もうこの先、カザルスみたいなキャリアが待っていると思った。そう、それは指紋みたいなものなんです。他人の指紋を持ってくることは不可能ですから。
 バッハの二短調の組曲(第2番)を習ったときのことです。カザルスは、あらゆることを彼と同じにするよう要求しました。彼が座ってあるフレーズを弾くと、私がそれをまったくまねする。ボウイングから何からまったく彼がやるのと同じように弾く。次のレッスンでは、別の数ページを同じようにやる。3週間の間、カザルスの完壁なコピーとなったのでした。とうとう、私はまるでカザルスその人のように全曲を演奏できるようになりました。ところが不思議なことに、やがて私は彼のできの悪いコピーのように感じられてきたのです。で、ある日、彼は私にチェロを脇に置くように言い、バッハのその組曲を弾いてくれたのです。あらゆる部分が違っていました。ボウイングも、フィンガリングも全部違っていて、私に彼が教えたものとはまるで別物でした。で、彼はあの素晴らしい組曲を弾き終えると、「さあ、これがレッスンだよ。君はこの曲をとてもよく知っている。あらゆる音符、あらゆる指使い、あらゆるボウイング。さあ、これからは君が自由に即興するんだ。即興できるほどよくこの曲を知ったのだから。そのうちに、新しい楽想や、新しい構造を考えつくだろう」それがカザルスから受けた、最後のバッハのレッスンでした。
 いまに至るまで、私は各組曲を何年も勉強していますけれど、座ってバッハを弾くときには、決して二度と同じには弾きません、だって、組曲のあらゆる音符を知っているのですからね。演奏の場で創造的になることがチャレンジなのです。

--当時は力ザルスはあまり生徒がいなかったんですか。

G 最初の年は私だけでした。私のレッスンは信じ難いものでした。午後4時に部屋に行く。週に3回です。で、8時までやる。4時間ですよ。たくさん弾きました。それだけでなく、たくさん話をしました。彼にとつて音楽的なつながりがあるのは、私しかいませんでしたからね、世界中で。だから彼は私に、音楽のこと、彼の経歴のこと、作曲家のことなど、次々と話をしてくれました。とても親密な関係でした。音楽創りに関しては、彼は極めて厳格でしたが、一方で私と一緒に散歩に出て、カニグー山の方に歩いていったりね。彼とあのような深い信頼関係を持てたのは、私以外にはいないでしょう。

私はカザルスの偉大な生徒だった

--カザルスに学ぶことで、あなたに最も重要だったのはどんなことでしようか。

G いまでも彼のアイディアで、私が考えていることはたくさんあります。いちばん重要と思うことは、左手のヴィブラート、弓の動きと関連した左手の表現について。ヴィブラートは、弓で作り出す音色と完壁に関係していなければならない、そうしないと美しい響きを作るのは不可能です。それに、弓が何をしているかにかかわらず、左手で常に美しい響きを保つこと。ヴィブラートの使用は、私が考える演奏論の中で、最も垂要なことなのです。美しい響きが、すなわち美しいヴィブラートである必要はありません。美しい響きは、音色とかかわっています。白でも黒でもなく、虹のあらゆる色が左手にある。もしも演奏家がそんな音色を創り出す能力を備えていれば、弓との関係でヴィブラートの質を変化させることができます。それを学んだのは、私のカザルスとの最初のレッスンでした。
 彼は私に、演奏するときにヴィブラートをかけないように命じたのです。私は美しい音を誇りにしていましたし、響きに対する基本的な考えは、美しくあることでした。それまでの私のチェリストとしての名声は、響きの美しさによって得られたものだったのです。でも、凄いステーキを朝昼晩と食べていたら、もう嫌になってしまうでしょう?同じことです。私は自分の音の美しさに、いい加減嫌気がさしていたのです。音楽を表現するということには、美しい音を出すだけでなく、もっと何かあるだろうと思うようになっていました。で、彼とレッスンし、家に行き、バッハのソナタの緩徐楽章を弾いた。左手のヴィブラートなしで、弓だけでです。普通はヴィブラートしないクラリネットなんかみたいにです。3日間はこの左手の動きを止めるのに四苦八苦しましたよ。で、3日後に、どうにかヴィプラートなしで弾けるようになり、弓だけで可能な限り美しい音楽を作り上げようと努力しました。カザルスは喜んでくれて、「いいだろう、じや、左手を使つて、さまざまな音を創る練習をしようじやないか」と言う。「何をしたいのかな、最初の音符で少しクレッンェンドしているけど、これはヴィブラート付きの小さなクレッシェンドでなければならない」って。両方は平行してなされねばならないのです。それが始まりでした。私がそれまで習ってきたことからの、まったく違った出発でした。そして、私はそれを学んだ。

--カザルスは、本来は教師にはなれないタイプの人だったように思えるのですが。

G まったくその通り。カザルスがマスタークラスを行うときは、最初は座っていても「違う、こうでなきや」と言ってチェロを弾き始める。例を聴かせるわけですね。それは偉大な教え方ではありません。彼は偉大な教師ではありませんが、私は偉大な生徒だった(笑)。
 私は彼からできるだけ多くのものを搾り取ろうと思っていました。彼と15分いるときでさえも、彼の偉大な芸術の秘密を盗もうと思っていたんです。私はカザルスの高みに達したことは一度としてありませんでした。でも、そうなろうと試みました。そして、現在の私なりの楽器の扱い方があるのです。世間から少しは認めてもらうことができました。芸術家としてのカザルスに近づけたとは、これっぽっちも思っていません。彼は特異な現象でした。彼が私にとって偉大な教師となり得たのは、本当に長い時間を過ごすことによってだったのです。

--あなたの眼から見て、カザルスをあのような偉大な芸術家となさしめていたのは何だったと思いますか。

G 彼はこの地上で、私たちよりもはるかに高いところにいた人なのです、それだけ(笑)。



トリオにおける
各自の役割とは

--トリオで演奏するのと、クァルテット、それにオーケストラの前で演奏するのでは違いがあるのでしょうか。

G もちろん、あります。トリオのメンバーとしては、パートナーの演奏をより美しいものに高めることができます。自分がどんなに美しく演奏するかを考えるばかりでなく、パートナーをどれだけ美しくできるかなのです。意味が分かりますか。自分の演奏を考えるだけではいけない。ヴァイオリシ奏者が美しいフレーズを受け持っているとき、チェロの仕事は、彼のサウンドをより美しくすることにあるのです。パートナーシップです。完全なパートナーシップ。ピアノともそのような関係にあります。彼はチェロともヴァイオリンともそうすることができた。それがプレスラーが偉大な演奏家である理由なのです。トリオの演奏家として、彼はピアノの響きを弦楽器のようにすることができました。そんなことができるピアニストは、この世にそうはいませんよ。それがトリオ全体の響きを創り上げていますし。ギレも同じです。彼もトリオ全体のために、自分を捧げることができる人でした。このフレーズをいかに美しく歌うかに関心があるだけでなく、他の人がもっとよく響くように考えていた。素晴らしく、そしてなかなかあり得ない共同関係でした。独奏者が耳にしているのは、白分の楽器だけです。トリオやクァルテット、偉大なクァルテットの演奏家は、自分の周りで起きているすべてを聴いているものです。すべての響きがよりよくなるようにね。それがいちばん大きな違いです。

--レパートリーがハイドンやモーツァル卜では、チェロとしてはそれほど面白くないものじゃないんですか。

G 彼らの曲がどんなに面白いか、きっと驚きますよ。チェロの意見が演奏全体に非常に大きな意味を持っているのですから。ベースの線にしても、ピアノの左手と一緒に単純な音形の羅列をやっている場合でも、そんな音楽をソプラノ声部よりも興味深いものにすることが可能です。それが全体の中で重要な役割を担っていることを理解すればね。あのハイドンの40曲もあるトリオを演奏するのは非常に楽しかったですよ。

いまがキャリアの
頂点かもしれない

--グリーンハウスさんがボザール・トリオを始めたころ、ほとんどの人は偉大なチェリストは独奏者になるものと信じていたと思うのです。トリオ奏者とは、ある意味では二流の演奏家だと。

G 今でもそうでしょう。でももしそんな意見が当たっているとしたら、ボザール・トリオというものはそもそも存在していなかったでしょう。もしも私を二流のチェリストだと思う人がいれば、それはそれで結構です。そんな人は、ボザール・トリオが何たるかを聴けなかったということですから。聴衆に印象を与えるためには、交響楽団の前に出てドヴォルザークとかプロコフィエフの協奏曲を弾かなくてもかまわないのです。私は自分なりにチェリストとしての評価を得たと思っています。まあそこそこよい評判だったでしょう。そんな評価は、「このフレーズ」とか、「あのフレーズ」とかによって作られました。私がそれらを演奏するのにつきあってくれた聴衆のおかげです。そんな人たちの喜びを与えられたことが、とても嬉しいですよ。ドヴォルザークの《ドウムキー》でのあるフレーズとか、シユーペルトの変ホ長調のあるフレーズなどを、私の演奏として人々がいつまでも記憶していてくれる。私の頭にあったのは、そのことだけです。人々に私の名前を覚えさせるために、ドヴォルザークの大きな協奏曲を弾こうとほ思いませんでした。そんな気すらなかった。天賦の才能があり、それに十分な鍛錬をするだけの幸運に見舞われれば、芸術家である音楽家、演奏家として、私たちはコミユニケーションの手段を持っています。日本語よりも、英語よりもほるかに美しい言語で人々に話しかけることができる。国を越えた言葉なのです。どんな他の芸術形態よりも、人と人との間で、言葉よりももっと深く行くことができる。説明する必要もないし、説明などそもそも不可能なのです。ですから、私は自分がトリオをやってきたから、二番目に偉大なチェリストであると思われてもかまいません(笑)

--だれもそうは思わないでしよう。

G 確かに私は独奏者としてのキャリアを特に求めたわけではありませんでしたからね。でも明らかに、私は私なりの仕事をしてきました。それは自分が楽しめる形、トリオという形で、美しい何かを創造することでした。世界のチェリストの中で、一番になりたいと思ったことば一度もありません。もちろん、五番になりたいとか、十番には入りたいとかも思いませんでした。そんなことは関心の外でした。自分の音楽生活を楽しみ、それが創り上げる素晴らしい時間を楽しんでいた。

--じゃあ、現在のグリーンハウスさんにとって、音楽を持っていたことはとても幸運ですね。

G ええ。本当にそうですね。いまはキャリアの終わりじゃない。いまこそが最高の頂点なのかもしれないね。自分自身のためにだけ演奏し、演奏の出来やら、キャリアやら、契約することなんか、何も考えなくてよいのだから(笑)。いまの私は純粋に演奏の楽しみだけで生きているようなものです。
 いまは独奏リサイタルは引き受けませんし、オーケストラの前でも弾きませんけれど、完全に引退したわけではありません。自分がやって楽しいことだけをやっているのです。日本に行くのは、何年も経験を積み、カザルス、フォイヤマン、アレクザニアンなどの、本当に偉大な巨匠たちに教えを受けて形づくられた私の考えを聴いてくれる、若い演奏家や聴衆に何人か出会えるからです。それらを自分の中にだけ抱えているなどできません。私にとっては新しい国に行き、それらを語るのは、まだまだ意味のある努力だと思えます。私は私のやるべき仕事は十分やりました。わざわざ旅行をして、収入を得る必要などもない。でもときどき、オーストラリアに行ったり、日本に行ったりしています。若い人たちに、私が持っている音楽的アイディアを分け与えるために行くのです。


●聞き手:渡辺 和 1996年7月6日、マサチューセッツ州ウェルフリートの自宅にて
CASALS HALL FRIENDS 4 より