雑記帳
思いついたままだらだらと支離滅裂なメモ

1:コンビニエンスストア(便利のために失ったもの)


その1:コンビニエンスストア
    小さな便利のために失ったもの。

 いわゆるコンビニは便利だ。それは私達の生活を確実に変えた。そして心も変えつつある、と嘆くのは中年のおじさんおばさんばかりだろうか。

生活の奪取

 便利であることは勿論認めるが、金になればなんでもやるという浅ましい商人道。昔、商社は鉄鋼は売っても釘は売らなかった。だから、釘を売るという「小さな商売」も成り立った。今、街から商店が次々と消えていく。つぶれるかコンビニに変身するか、多くの商店は悩んでいると聞く。やがて、郊外の大型スーパーと、街の24時間営業のコンビニしかなくなるのではないかという勢いである。これは大商社による一種のトロール漁法、街の商店根絶計画のようなものだ。落ち穂拾いの落ち穂1本貧しい人のために残してやらない。強者が全てを取る。ネット社会がそれをますます加速する、現代とはそういう状況である。

 便利なんだからそれで良い、顧客のニーズにあった商売の形態が成功した、サービス革新・・・評論家はそういうが、そうだろうか。
 こんな現象は日本とアメリカだけなのではないだろうか、ヨーロッパの都市でも同じように、コンビニ全盛だろうか。24時間営業?何時寝るんだ?と言われるのではないだろうか。地球の環境保護が叫ばれる現在、24時間煌々と明かりをつけているコンビニのために何台の原発が必要だろうか。(かんかん照りのなかに放置された無数の自動販売機、こんなもののために何台の原発が必要か、それはどういう人間の便利のためにおかれているのか?)コンビニがあるために増えるごみや様々な代償が本当に必要だろうか。一体誰がどの程度の得をしているのか。
 ヨーロッパなら、たとえ儲かってもやらないのではないだろうか。今の日本人からすれば儲かるのにやらないのはシンジラレナイかも知れないが。ヨーロッパ人には身に付いた生活の知恵、
生活の中に幸福を根付かせる智恵があると私は思う。いや、ヨーロッパに限らないだろう。少なくとも日本以外ならこんなバカなことが起こるとは思えない。いや古い時代の日本なら違うだろう。日本がこんな馬鹿な国になったのはほんの少し前からだ。とっても便利な日本に住んで、みんな幸せと答えられるか。自分が幸せだ、いい国に住んでいると答える人が世界で最も多いのはスペイン。ヨーロッパの辺境の地である。便利と幸せとは関係ないらしい。
 大体コンビニを経営する人は、何人かのオーナーに聞けば、今更後にはひけないだけで、満足できる収入があるかも知れないが、満足できる生活をしているかどうかはなはだ疑問だ。企業の歯車になって、普通のサラリーマンより管理されていてとても「自営業」者ではないという。殆ど休むこともできないし、自らの創意工夫もいらないから商売の面白味もない。仕入れも自由にできないようなこういう商店に囲まれた生活は楽しいものだろうか。店主のこだわりも個性も遊び心もない、ただ一般的に儲かればよいとしか考えないそういう店に囲まれた生活空間は、生活を楽しく豊かにするだろうか。
 スイスのあるおもちゃメーカーで昔から作っているあるおもちゃが日本で人気になった。1日60個しか作っていないが、売れるからもっと大量に作ったらどうかと、誘ったところ、言下に断られた。昔から、この数しか作らない。これで生活できているしこれ以上作ってもその時は良くてもやがて飽きられる、というのだ。これが生活の知恵だ。

便利ということ

 人に聞いた話では、ヨーロッパでは、時間を消費する楽しみが生活に根付いている。実際、ペンションに泊まりに来る人の過ごし方をみても、日本人や東洋人は、のんびりしたいと言いながらあくせく動きまわる。ヨーロッパ人は、自然の中を散歩したり、テラスでお茶を楽しんだり、自分の時間を楽しむすべを心得ている。沢山の人が口では「豊かさが求められる時代」とか「ものより心の時代」とか簡単に言っているが、豊かさは不便と共にあると逆説的に言えるのではないかと私は思う。便利ということが私達の生活の豊かさ、幸せにとって何ほどの価値を持つだろうか。全てオートマチックで毎日何をしなくても朝起きればご飯が炊けコーヒーが入っているのがよいか、まきをくべ炊きあがるのを待っている生活が豊かなのか。
 便利というのは労力の軽減、時間の節約に結びつくということだ。それで?その儲けた時間と労力をどうするのか。再び、生産と労働に費やし新たな富を作り出す。この「富」は何時消費されるのだろうか。永遠に来ない富、つまり、これは「奴隷思想」だというのが、イギリスの哲学者バートランド・ラッセル卿の「怠惰への讃歌」という本に書かれていておもしろい。大量生産ということが、労働の意味を変え、生活を変える、人間性の喪失を導くということを見抜いた思想家は他にもいた。大量生産によってバラ色の未来が来ると考えたのは19世紀の子供っぽい愚かな幻想で、今や、地球温暖化、公害・・・・様々な地球規模の問題になっている。その全ての根元は、産業革命であり、便利なことは良いことだという愚かな考えだ。時間的なゆとりが出来たら遊ぶことだ、時間的ゆとり=暇 これがギリシャ語でスコレー、学問の語源である。暇があって遊ぶにも色々なものがあり、パチンコで暇つぶしをするのも芸術の道に精進するのも学問にいそしむのも遊び方次第。ただ上手に遊ぶことができないというのが、現代人の欠陥でもある。学校では勉強は教えるが遊びは教えない、教えられる人が少ないということだろう。これが高じると定年後なにもすることがない、つまらない人間とはつきあえないから離婚する、ということにもなる。勤勉な日本人は遊ぶことを悪のようにこの数十年見なしてきた。しかし、この10年以上次第にその考えは変わりつつある。これからの高齢化社会、上手に遊ぶことは大変重要なことだ。


 話は変わるが、コンビニにはもう1つ問題がある。具体的に山中湖にあるコンビニを例に取ってみよう。

地域の中で

 この数年、山中湖を含む富士五湖周辺には年間1500万人もの観光客が来ている。宿泊が減り日帰りが増えたと言うが、では、湖畔周辺のレストラン土産物屋は繁盛しているのか。NOである。来た人たちは、コンビニで弁当を買い、湖畔の無料駐車場に車を止めてその辺で食べ、ごみだけ投げ捨てていく。弁当が売り切れならカップラーメンを買い、コンビニでお湯をポットから注いでそれを食べる。ここで私が疑問に思うのは、このポットによるお湯のサービスだ。ここまでやられたら近隣の飲食店は立つ瀬がない。そんなバカな事するモンじゃない。食べるやつも食べるやつだ。倹約したければ、家で弁当でも作ってくればいいし、その方が楽しい。商店としてカップラーメンを売るのはよいが、お湯まで出すことはない。サービスのつもりだろうが、はき違えている。もしどうしてもお湯のサービスをしたいなら喫茶コーナーでも設けてそこで座って食べられるようにすべきだ。若者が店の前に座り込んだり、込み合う駐車場に陣取ってカップラーメンを食べているのを知らないはずはない。富士国立公園という世界中から観光客を迎えるこの地で、それにふさわしい良識(たしなみ)を持って商売をして欲しい(そんなことは無理とは知っているが)。おでんを売り始めた頃にも同じように感じた。おでんは、屋台の看板の1つだ。多くの起業家が独立の第一歩を屋台をひくことから始めた。お好み焼きや、おでん屋、焼き芋屋・・・それは庶民のささやかな商売だ。コンビニがなんでそんなものまで取り上げようとするのか。おでん屋には独特の雰囲気があって、ただ、ものを売っているわけではない、コミュニケーションがあった。おでんを奪ってそしてコミュニケーションもそれと共にある生活(これこそが豊かな生活)も奪った。人間はコミュニティセンターという作られた場所で交流するのではない、テレクラで人と出会うのではない、生活の場が交流の場なのだしそれは障害者福祉でもなんでもそれが基本だ。だが、コンビニにとってそれがどこに立地しようと、周囲の生活環境とは無縁に、ただ、儲かればいい、人を集めればいいのだ。コミュニティーを破壊することを何とも感じない。人間の生活、営みが非常に薄っぺらで抽象的になっていくということが、どういう結果を生むか。勿論、地域社会というものは有名無実になる。そこには生活の匂いがない、そういうところでは人間や文化が育つだろうか。バブルの頃、東京で盛んに過疎化が起き、街が消えていったのはしばしば報道された。残るのは新興住宅地という生活の匂いのする街とは言えないベッドタウン。そう言うところにあなたは本当に住みたいか。震災後の神戸の再開発をめぐって、行政側の提案した防災都市としての区画されたビル群に対し、住民が提案した街作り、住んでみたい街作り案は、本当に地域で生活すると言うことの意味を教えてくれていた。役人が自分の貧しい心と頭の程度に合わせてわかりやすく抽象化するより、実生活はもっと複雑であってそれに対する畏敬の念も必要だと思う。

増え続ける幽霊

 少年犯罪が多発し、昨今テレビ、新聞をにぎわせている。これはこれまで述べたことの1つの結果だと思う。テレビゲームだけがバーチャルなのではない、生活そのものが実感を欠いてきているではないか。自分1人にとって便利である、テレビゲームを楽しむように自己中心的に思い通りになる便利さを無批判に追求したあげく、無味無臭、そういう社会を作り、現在も尚、無反省に拡大していっているではないか。うすっぺらの生活の上に、更に下らない薄っぺらなテレビのお笑い番組がとどめを刺す。
 聞き及ぶ限り第2次大戦前の日本はそういう国ではなかった。昔から日本人がそういう民族だったのではない。戦争を利用して金をもうけ権益を広げてきた政治家や財界人が今もなお、この国を支配し、国民をアヘン中毒者ならぬ盲目の拝金主義者にしているのではないだろうか。

 不幸なことに政治も生活も、このような環境下では、流れに任せていってよい結果が生まれるようにはなっていないようだ。物事を矮小化し単純化し、感覚的刹那的に選択させられていくと、その結果はどうなるか。便利なことがよいことか、単純に、私を信じなさい、おいしいものをあげようという人についていってよいのか・・・

 

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